日常生活に溶け込みながら、社会や経済動向とも関連がある「ジャズ」
皆さんはジャズと言えば、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
ビジネスパーソンの方々にジャズについてたずねると、「大人の音楽」「お洒落」「夜が似合う」など、非日常的な空間やひとときを味わうための音楽という印象をお持ちのようです。
とは言え、今やジャズは専門のジャズバーに限らず、レストランやヘアサロンなど、様々な場所で流れていますし、最近では「心身と脳の疲労回復にも効果がある」ということから、職場にBGMとしてジャズを取り入れているオフィスも増えているようです。
在宅ワークが増えた昨今では、自宅で仕事の邪魔にならないBGMとしてジャズを選んでいるという方もいらっしゃるようです。
それだけジャズは、楽しみ方や味わい方も多様であり、多くの人を魅了する音楽であると言えるのかもしれません。
各々の場面で聴かれているジャズのスタイルやパターンをリスト化したら、おそらく多種多様になることでしょう。
そして、日常生活に溶け込んでいるのと同時に、私たちを取り巻く社会や経済動向と関連があるのもジャズの特性です。
このコラムでは、その「ジャズと経済の相関性」について取り上げ、なかでもジャズの本場とされるアメリカを中心に据えて、探っていきたいと思います。
アメリカ南部・ルイジアナ州ニューオーリンズから始まったジャズの歴史
「ジャズ」について辞書で引くと、
『アメリカで始まった新しい音楽。黒人の民族音楽とヨーロッパ音楽を母体として生まれ、楽器編成、メロディー、ハーモニーはヨーロッパ音楽の伝統を継ぎ、リズム、サウンドは黒人の感覚をもとにしている。ジャズにその生命を与えるのはインプロビゼーション(即興演奏)にある』
と記されています。
そもそもジャズの歴史は、アメリカ南部のルイジアナ州ニューオーリンズから始まったとされています。
もともとアメリカ南部、ニューオーリンズのようなミシシッピー川の河口は、港町という特性からも、世界中の民族や文化が集まりやすい地域でした。また黒人奴隷が多くいた地域でもあります。17世紀初頭にオランダの軍船が初めて20人の奴隷を連れてきたことを皮切りに、その後200年超に渡る奴隷貿易において、タバコや綿花の栽培地域であったアメリカ南部には、その労働力として多くの黒人奴隷が移り住んできました。そして、農場主たちがヨーロッパから持ち込んだ文化と、奴隷たちがアフリカから持ち込んだ文化が、このアメリカ南部の地で融合したことにより、ジャズの文化が生まれます。
ジャズはアフリカから伝わった民族音楽とヨーロッパから伝わった西洋音楽の組み合わせにより生まれ、発展した音楽であると言えるのです。
南北戦争を機に、混血のクレオールが上層階級から下層階級に転落
特にニューオーリンズは、人種、民族のるつぼとなり、当時はニューヨークなどの大都市よりも多文化で多様性のある町でした。ニューオーリンズの名物である「ガンボ」(Gumbo)というごった煮料理は、この多文化と多様性を象徴するスープ料理であると言えます。
ニューオーリンズは、もとはフランス領で、一時はスペイン領になったこともありましたが、独立間もないアメリカが、19世紀初め(ナポレオンの時代)に、フランスから買い取って合衆国の一部となりました。その後もフランス系白人が在住し、黒人との混血も増えていきます。
混血の彼らはクレオールと呼ばれ、クレオール言語と呼ばれる混成言語を話していました。当時のクレオールは、白人と同等の扱いを受け、音楽教育も含めて、ヨーロッパスタイルの教育を受けていました。
そうしたなか、1865年に「南北戦争」が北軍の勝利に終わり、「奴隷解放令」が発令されことにより、クレオールたちは白人の扱いを受けることができなくなります。社会階層における上の階級から下の階級に一気に落ちてしまったのです。
ニューオーリンズのジャズミュージシャンたちの拠点がシカゴへ
そんな不条理を痛感するなかで、クレオールは黒人社会に入り込んでいき、アフリカ出身の黒人たちが奏でる音楽とクレオールが奏でる西洋音楽とが融合を強め、バンド演奏を中心とした酒場や、ダンスホールの人気と共にダンス・ミュージックとしてのジャズが大衆文化として繁栄していくことになります。
売春宿の公娼街「ストーリーヴィル」も、そうした盛り場の一画にありました。ですが、その後、第一次世界大戦を迎えるなかで、風紀粛清の徹底から「ストーリーヴィル」が廃止され、ニューオーリンズのジャズミュージシャンたちは、活動の場を失ってしまいます。
そして、ミシシッピー川を北上し、シカゴへと移らざるをえなくなりました。この大移動は、アメリカ経済全体において、南と北の地位が逆転したことが大きく影響しています。
下火となってきた南部の綿花栽培などを中心とする農場経営に対し、北部の繊維、鉄鋼等の商工業や自動車工業、金融、株式取引などが台頭し、シカゴなどアメリカ北部の都市に大量の労働者を流入させました。
ジャズミュージシャンが北上したシカゴの南部には、黒人労働者がすでに集中的に移り住んでいた「サウスサイド」があったことから、ジャズの文化も根付きやすく、次第にジャズの中心地となっていきます。
ジャズの拠点はニューオーリンズからシカゴへと変わり、1920年代のシカゴ・ジャズの時代を迎えるのです。
"サッチモ"ことルイ・アームストロングによりジャズが飛躍的に発展
さらに1923年には、あのルイ・アームストロングがシカゴにやってきます。
サッチモの愛称で世界にその名を轟かせたジャズの王様。
「世紀のエンターテイナー」と呼ばれる伝説のジャズミュージシャン、ルイ・アームストロング。
彼の偉業や素晴らしさについて、日本を代表するトランぺッター・原朋直(洗足学園音楽大学教授)先生に直接、おうかがいしました。
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「ルイ・アームストロングは、スウィング(Swing)、 インプロビゼーション(即興性)、ジャズのバンド・コンセプトなど、ジャズという音楽を飛躍的に発展させたイノベーターとして、ジャズの歴史に名を残す人物です。
トランペット・サウンド、歌声、それら底に流れるアイデアに満ちた楽曲の解釈、バンドリーダーとしての在り方etc...彼の凄さと魅力を挙げたらキリがないのですが、彼の生み出した音楽が現代のジャズに脈々と受け継がれていることは間違いないと思います。
さらに、ジャズをアートの域まで押し上げた音楽家のひとりでもあります。アメリカ黒人の文化として始まったジャズを、今では世界中の様々なミュージシャンたちがそれぞれその誇りを持ってその発展に寄与する...そのような芸術としてジャズが今日あるのも、彼の貢献が大きいと言えるでしょう。
ジャズを通して、アメリカという多人種、多文化国家の在り方に一石を投じ、この国の文化そのものに大きな影響を与えました。
そして、それは世界の文化にとっても同じことが言えるのではないかと思います」。
「ルイ・アームストロングは、スウィング(Swing)、 インプロビゼーション(即興性)、ジャズのバンド・コンセプトなど、ジャズという音楽を飛躍的に発展させたイノベーターとして、ジャズの歴史に名を残す人物です」。
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原先生のおっしゃる通り、ルイ・アームストロングが活躍した1920年代は、ジャズ人気と共に、アメリカの文化や社会が変化し、同時に大量消費文化も生まれ、経済成長率・GDPも順調に伸び、株価も右肩上がりで天井知らず、国全体が資本主義経済を謳歌する時代となりました。
新興の富裕層も誕生し、彼らが観客となってジャズの世界をさらに盛り上げていきます。ある種のバブル経済期を迎えたアメリカ社会とジャズが連動する最盛期を迎えるのです。
その1920年代のストーリーは、次回のコラムにて解説いたします。
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著者プロフィール
鈴木ともみ(すずきともみ)氏
経済キャスター、ファイナンシャル・プランナー、日本記者クラブ会員記者。
早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員、多様性キャリア研究所副所長。
埼玉大学大学院人文社会科学研究科経済経営専攻博士前期課程を修了し、経済学修士を取得。地上波初の株式市況中継TV番組『東京マーケットワイド』や『Tokyo Financial Street』(ストックボイスTV)にてキャスターを務める他、TOKYO-FM、ラジオNIKKEI等、ラジオ番組にも出演。国内外の政治家、企業経営者、ハリウッドスター等へのインタビュー多数。
『音楽×ドラマ語り』を披露する和洋サウンドシアターユニット『未来香音』のストーリーテラーとしても活動し、東京発信ライブと地方のまちおこしイベントを展開している。
主な著書『資産寿命を延ばす逆算力~今からでも間に合う! 人生100年時代を生きるための資産形成~』(シャスタインターナショナル刊)、『デフレ脳からインフレ脳へ』(集英社刊)。