平家物語は作者不明とされていますが、実在した歴史上の人物が数多く登場します。紫式部の『源氏物語』は、登場する貴族たちの名前も人物像も、今の私たちの社会や生活とは別次元の世界が表現されている作品です。
一方、『平家物語』は、今の私たちの社会や組織のあり方、仕事人としての覚悟など、相通じる場面がいくつも出てきます。
そのまま自分たちの身近な出来事として共感したり、参考となるような物語やエピソードが存在したりするのです。
また、『平家物語』に描かれている12世紀は、長い日本の歴史のなかでも、貴族社会から武士社会へと大きく変貌を遂げる時代の狭間でもありました。今の日本もめまぐるしい国際情勢の変遷や急速なグローバル化、デジタル化という新たな潮流を迎えています。様々な観点で『平家物語』から学び得ることは数多くあると言えそうです。
今回は平家物語の冒頭の一節、美文として名高い『祇園精舎』を取り上げ、平家物語の世界を自分自身の生き方や日常と照らし合わせつつ考えてみたいと思います。
古典講師歴37年、大学受験生を始め、若い世代に向けてわかりやすい古典解説と、古典作品の魅力を伝え続けている中西光雄先生に詳しくうかがいました。
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[平家物語より『祇園精舎』]
【原文】
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色、盛者必衰(じゃうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。
おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛(たけ)き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
【あらすじ】
祇園精舎はシャカが弟子たちと住んで教えを説いた寺である。
その堂の鐘の響きは、この世の全てが変化・流転するという心理を告げ知らせた。
また、シャカがなくなった時、聖木である沙羅双樹の淡黄色の花が白く色あせて、勢い盛んな者も必ず衰えるという真理を示した。
この真理は俗人にも当然あてはまる。
得意の絶頂にあっても、長くは続かない。まるで春の短い夜のはかない夢のように。
また、どれほど威勢を誇っても、最後は滅んでしまう。
それは、まるで風に吹き飛ばされる塵のように、もろい。
――『平家物語』の冒頭の一節は美文として知られています。七五調のリズムと情景を目に浮かばせるような語句が特徴的です。中西先生は『祇園精舎』の一節についてどのような印象をお持ちですか?
この『祇園精舎』は、ほとんどの中学校二年生の国語の教科書に掲載されています。言葉は意味だけで成り立っているのではなく、語調やリズムがともなってこそ価値あるものになるということを、この文章を通して多くの日本人が理解してきたように思います。本格的に文語の学習をはじめるのは高等学校入学後ですから、義務教育である中学校で古典に親しむ単元で、語り物文芸である『平家物語』が選ばれているのは意義深いことだと思います。
女性が平仮名を用いて書いた和文ではなく、漢語を豊かに取り入れた和漢混淆文。漢文が平安男性貴族の基礎教養であったことをふまえて男性的な文章と言われてきましたが、実は平安時代に培われてきた和文脈の心情表現の豊かさを引き継いだもので、鎌倉時代はじめに生まれた性別や身分を超越した新しい日本語表現と言ってよいと思います。七五調に心地よさを感じ、言葉から情景をありありとイメージできたとしたら、私たちの中の言語的な遺伝子が呼び覚まされているのだと考えてよいのではないでしょうか。
もはや完全な和文を書く人はいません。しかし、和語と漢語、そして外来語を交えて書く行為は今日まで続いています。ですから、和漢混淆文は現代日本語のルーツだと考えてよいと思います。
――先日、人気ドラマのなかでも登場人物が『祇園精舎』を暗唱していました。冒頭の「祇園精舎の鐘の声」は、多くの人の耳に馴染んでいます。老若男女問わず、教養として、知っておく価値はありそうですね。
古典を学ぶにあたって、名文の暗唱は最も大切なことのひとつです。古典を大切にするフランスのリセでは、モンテーニュやデカルトの文章を暗記させると聞いたことがあります。イギリスの小説『チップス先生さようなら』のチップス先生はパブリックスクールのラテン語の教師で、言葉の端々にラテンの警句をはさむ人物としてユーモラスに描かれていますが、生徒たちには心から尊敬され愛されています。
警句=エピグラムは、もちろん教養として今日のビジネスパーソンにとっても大切ですが、その警句の背景を理解していないとステレオタイプな使い方しかできないのではないでしょうか? 自分の人生観に関わるような重要な古典については、あるまとまった範囲を暗記しておく。そして物語として理解しておく。もし、人生の節目に立ったときに、思い起こす警句に励まされるとしたら、そのようにして理解した物語と覚えておいた言葉によって、背中を押されるのだと私は思います。
『祇園精舎』の一節は、古典の暗記にふさわしい格調と内実とを備えていると思います。みんなが覚えているということは、時に世代を超えて語り合うことができるということでもあります。歴史の中に自分を再発見できるということでもあります。この共同心性とでもいうものを完全に失ったとき、社会は決定的な分断を迎えることになります。
近代の学校は教師が教えたいことを生徒に教える場でした。しかし教師の個性がバイアスとなることも多いのです。歴史の淘汰の中で生き残った古典の名文を若者に提示し暗示をすすめる。そして教師は読み方・調べ方のアドバイスだけをする。近年注目されている「主体的な学び」を進めるにあたって、古典講師としての私がしてみたいことはこのシンプルなことです。
――「おごれる者久しからず」「猛き人もつひには滅びぬ」は、勝者の栄華も長くは続かない、ということを示唆しています。まさに無常とも言えるこの表現は現代にも通じるように思います。実社会や組織においても、地位や功績が称賛される時期は限られ、勝者とみなされている人も、いつのまにやら敗者になっている例はいくつもあります。「おごれる者久しからず」には、現代にも通じるどのようなメッセージが託されているのでしょうか?
「無常」とは「死」のことです。次の瞬間、私たちは今ある命を失っているかもしれません。しかし「死」が隠蔽された近代社会では、そのことが忘れられがちです。中世ヨーロッパのキリスト教世界では「メメント・モリ(死を想え)」という警句が大切にされていました。死を身近に感じるという点において、「無常」と「メメント・モリ」には共通性があります。洋の東西を問わず、中世世界は共通の思念を持ったと考えてよいでしょう。宗教の絶対化という中世的な前提はあるに違いありませんが、戦乱や飢饉、自然災害や疫病の流行などによって、人の死があまりにも身近であったことが、人々に「死」を注目させることになったのです。
実力がすべての武士の社会では、下剋上・裏切りなどは日常茶飯事、権勢を誇った者が安寧に死ねる約束などなくなりました。敵に捕らえられれば、市中を引き回されさらし者にされ斬首。打首が野にさらされる残虐な世界です。その中で傲慢きわまりない権力者・平清盛と平家の栄華も一代のうちに滅びに転じます。琵琶法師の語る平曲によって平清盛の栄華と死を聴いた中世の人々は、勧善懲悪に快哉を叫んだというよりも、清盛の中に自分自身の生と死のドラマを見たのではないでしょうか?
平清盛は、自らの力を信じるがゆえに、自分が権力者としてのロール(役割)を生きているという自覚が持てない人でした。漢籍を読めば、権力は社会的な職分に過ぎないということが容易に理解できたはずなのです。しかし、彼には教養がありませんでした。万能感を持ち自己を絶対化したのです。死さえ乗り越えられると思ったことでしょう。
しかし、現実にはそうではありませんでした。権力行使はロールのひとつでしかなく、死は確実に訪れた。そして彼の傲慢は、平家一門を滅亡に導くのです。中世の人々は、平清盛を酷評しながらも、彼と彼をとりまく人々の中に自分の生きざまを重ねたのでしょう。別れや死という悲しい場面では平曲とともに泣いたのでした。その意味で『祇園精舎』の一節は、有用な生活倫理、日常の哲学でもあったといえます。
現代のビジネスパーソンにとっても、小さな権力闘争は身近にありがちなことでしょうし、ときには非情な決断を迫られることもあると思います。そのときに、リーダーシップを持つ者が、権力行使を自らのロールとして客観的かつ冷静に行うことができるかが問われそうです。謙虚さには教養と哲学が必要です。
――源平による争乱は、自分たちを取り巻く社会のなかで、平静に安寧に生きていた時代を一変させ、国土の全域に渡って戦闘が展開されたことから有事の状態にあると言えます。有事だからこそ、登場人物の個性も出やすく、人間の喜怒哀楽が如実に描かれたとも推察できます。この有事であることと人間の本質の露呈という点について、中西先生は『平家物語』を通してどのように考察されますか?
すべての人が自覚的に戦乱の世を生き抜いていたわけではありませんが、戦乱の危機は、人の様々なあり方を露呈することになります。不安でパニックになる人もいれば、功名の絶好の機会と考える人もいる。一人ひとりの欲望と不安とがわかりやすく表現されるようになります。
徳川家康の天下統一後の江戸時代も、第二次世界大戦以後の日本も、戦争のないおだやかな時代であったわけですが、平時の日本人の経済的繁栄にかける情熱たるやすばらしいものだといえます。一方で、有事にはパニックや思考停止になったり、単純な同調主義に陥ったりする国民性もあるわけです。そうしたなかで、『平家物語』が描く人物の姿は多彩で豊かです。喜怒哀楽の表現にあふれ、日本人の感性の原郷ともいえる別れの愁嘆場も数多く描かれます。文学的な話題も多く、和歌も芸能の話題に事欠きません。やはり日本は「心情」の国、「心」の表現がとりわけ大切にされてきた国だと思わざるをえないのです。
その意味で、『平家物語』は日本人の感情のコレクションであると言えます。人を動かすときに、なにを語ればよいのか。人になにをしてあげればいいのか。『平家物語』はそれを教えてくれるでしょう。登場人物の言動に自分と重なるところを見出して、ときに自己嫌悪に陥ることがあるかもしれませんが、それも古典を読むことの大切な経験のひとつです。
『祇園精舎』に戻ります。ここにはただ人間の諦念のことが語られていると読んでしまう可能性が私たちにはあります。「盛者必衰」「無常=メメント・モリ」。しかし、私たち人間は、この変えられない制限の中で生きてゆかなければなりません。知恵を持ち理性的にふるまうこと。死に対してあくまでも謙虚であること。前回取り上げた那須与一の壮絶な覚悟は、ここにはじまりここへ帰ってくるのです。
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古典講師プロフィール
中西光雄氏
古典講師。音楽研究にも精通。1960年、岡山県生まれ。
国学院大学大学院博士前期課程修了。博士後期課程中退。(元河合塾専任講師)。
専門は日本文学・日本政治思想史。著書に『蛍の光と稲垣千頴』(ぎょうせい)、
共著に『唱歌の社会史』(メディアイランド)、『高校とってもやさしい古文』(旺文社)など。
著者プロフィール
鈴木ともみ(すずきともみ)氏
経済キャスター、国士館大学政経学部兼任講師、ファイナンシャル・プランナー、日本記者クラブ会員記者。
早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員、多様性キャリア研究所副所長。
埼玉大学大学院人文社会科学研究科経済経営専攻博士前期課程を修了し、経済学修士を取得。地上波初の株式市況中継TV番組『東京マーケットワイド』や『Tokyo Financial Street』(ストックボイスTV)にてキャスターを務める他、TOKYO-FM、ラジオNIKKEI等、ラジオ番組にも出演。国内外の政治家、企業経営者、ハリウッドスター等へのインタビュー多数。